カトリックと美

神学と美学の再婚

出来事と起動因

このところヴィガノ大司教の言動が波紋をよんでいます。彼が実際何を目論んでいるのか、遠回しに言っているようで真意をくみ取りかねます。第二バチカン公会議(V2)がフランス大革命に匹敵する大きな出来事であったことは多くの歴史家、神学者に仄めかされてきたものの、その意味、核心箇所があまり表立って言明されません。

現在のアメリカの混乱にみるポリティカル・コレクトネス「言葉狩り」に近い状況の要因、その対象語彙を用いることは不要な騒動を招きかねないことから避けるにしても、メディア報道に見え隠れする革命精神のようなものの正体が何なのか見極める必要があります。それらは政治学の領野で専門家の仕事に期待するとして、

仏大革命が暗にルソーにより準備されたことのように、V2においても、やはりその教理を構築する材料を提供した神学があったこと。

カール・ラーナーやT.シャルダン、H.キュングなどの学説(古代教父の再-解釈を含む)が改めて検証されるべきだと思います。彼ら神学者が純粋な学術研究として構築したものなのか、時代潮流に沿った結果なのか、教会崩壊を目論む(考えにくいが)だのか、その意図は図りかねます。しかし学説が改革の道具、梯子として用いられ、教会を世俗化-文明化へ大きく傾斜させた面は否定しようがないと思います。

 日本に皆無ですが、海外で盛んな教会ジャーナリズムは、教皇や〇〇枢機卿の立ち回りに関する記事や意見ばかりが散見され、政治色が強く、信仰や教理、思想面での議論が欠落しているように見えます。
 大きな出来事は、それを基礎付ける教理や学説を必要とします。啓蒙思想により仏革命が準備されたように....。
ジャンセニズムも同様、それを準備する二元論を肯定する出来事がある。ルター宗教改革にしても世俗-政治勢力のみならず、神秘主義やオッカム唯名論のように、主意主義の理論構築があってはじめて行為が立ち上がり、抽象思考が可視化され行為へと移行されていきます。

 V2批判で知られるルフェーブル大司教にしても、実践家としての記録はありますが、教理変更に対する核心的なところの議論があまり言及されていないのではないでしょうか。また伝統派の用いる「解釈」において、前提としているものが誤りであるという考察(ボストン異端に関する論考)がいくつか成されている。このあたりは政治情勢に目を奪われていると見落としてしまう繊細な教理に関する核心でしょう。

 実務家が必ずしも聖霊に満たされているとは限らず、やはり文面や論文による検証こそ待たれるべきだと考えます。この世俗化され尽くした世界において、神父でなく誰がextra ecclesiam nulla salusを言うことができるのでしょうか。