カトリックと美

神学と美学の再婚

現代アートの無内容さ

 全ての自由が許されるかの様なポスト・ポストモダン期において、現代アートと称されるものは、否定的であれ、炎上であれ、視線を集め”話題をさらった者勝ち”のごとく、お騒がせアートだらけの昨今であります。

 使われる手法だけとると似ていなくもないですが、百年前の前衛作家達は、無意識の発見や量子論などの影響を受け、各自、真剣さをもって冒険していたのに比べ、今の現代アートには中身もなければ、真剣さも感じられず、当然そこに美も存しない。政治利用や地域起こしに便乗した公金横領にさえとられかねないその展開は、娯楽以下の不誠実の極みのように写ります。

 純-芸術というものがあるとするならばですが、優れた作品は即時的な満足や、センセーショナリズム、頓智のような謎かけクイズでもなく、長期的に考えさせる材料を提供し、被験者の人生を揺さぶるものに限られるはずです。しかしそのようなものは90年代以降、ここ二十年来、全く生まれていません。しかし美術館や画廊、オークション、アート情報誌やWEBサイトは経済の歯車の中で日々”今はこれが新しい!”と無内容の情報をまき散らし、私たちの感覚を麻痺させ鈍化させてしまっているように思います。それは美の提供というより、公害のような存在として機能しているのではないでしょうか。輪をかけて問題なのは、極端な成功例だけ見せ生徒を募る、大学や専門学校などの教育機関であり、夢を抱かせ現実を隠すことで、若者を唆すようなその商業主義的態度は教育機関として大きな問題を感じます。