カトリックと美

神学と美学の再婚

猜疑心というメルクマール


 この半年考え続けていたこととほぼ同じ内容が、Larry Chapp博士によって詳細に解説されています。

Low Hanging Fruit: Part Two. Archbishop Carlo Maria Vigano.

gaudiumetspes22.com


 ヴィガノ氏をはじめ、オンライン・ジャーナリスト達がある「特定の方角」を向いていることを確信することができます。 ネットで流れてくる伝言ゲーム、雪だるま式に増幅される「猜疑心」ではなく、聖書や神学に基づいてバチカンの動向を冷静に見極めたいものです。

教会内政治とジャーナリストの知的不誠実

 日本には皆無ですが、西欧社会とりわけアメリカには教会ジャーナリズムというものが存在し、TV局からラジオ放送、紙媒体からWEBマガジン、個人ブログまで大量に存在します。

 ヴァチカンから世界に向けての公式発信はありますが、それらをただ報じるだけでなく、各メディアが独自の立場から世界情勢や社会問題と絡め、どのような状況か、解説記事が書かれ配信されています。ここまではごく真っ当で誠実な態度です。しかし問題なのは公言されていないことを、その「真意」はどうの、「思惑」がどうの、という書き方に留まらず、意識的か無意識的かは釈然としませんが、質の悪い場合はゴシップや陰謀説をそこに混ぜ込み、まき散らします。対象が政府や芸能人など世俗の存在ではなく、ヴァチカンは聖域であるために、ずかずか立ち入っての取材や検証が難しく、そのことでかえって正規ルートによる情報や噂話、憶測がまことしやかに垂れ流される構造を有することとなっています。

 また商業ベースのメディアは経営戦略として敬虔な信仰生活の話題よりも、ヴァチカン内の力関係-「勢力図」に関心があるようで、教会内政治について記事を書けばセンセーショナルで視聴率を取れたり、アクセスを稼げるのかもしれません。例えばライフサイト・ニュースは政治色むき出しの非常にいかがわしい記事が多く並んでいます。また写真が綺麗で以前は深みのある記事も多くみられたOne Peter Fiveも最近は主催者のスティーヴ氏をはじめカトリックの基本的立場を貫かず、資金集めからか酷いものも多く配信されています。

 ここ数か月のメディアの煽り記事は、コロナ禍で教会閉鎖が長期続き、普段ネットから距離を取っている大人までネットを介して教会と繋がるという奇妙な状況が強いられてきたこと、また世界情勢を左右する米国の大統領選挙が近いことが主因としてあるでしょう。加えて一連のヴィガノ大司教の言動が影響していることは確かです。教会内部の膿を出すような氏の言動は歓迎します。しかしVⅡ(第二ヴァチカン公会議への言及は、具体性を欠くもので、その曖昧な言説から何が読み取れるでしょうか?おかしな「憶測が飛び交うこと」を誘って教会内の混乱を目論んでいるかのように感じます。

 また動画対談で知られるユーチューバー、テイラー・マーシャルはトランプの件で知名度が急上昇していますが、彼の言説の神学的不確かさは残念ながら醜いものです。特に繰り返されるフォン・バルタザールへの批判は、ビショップ・バロンの関連で部分だけ抜き出したモノであり、テイラーはバルタザールの思想全体像を全く知らず断片のみ抜き出し批判し、オリゲネスの関与性すら知らずに事あるごとに貶しています。これは彼の信仰の色合いや立場性からのものではなく、学術的態度として不誠実です。この手のオンライン・ジャーナリストの多くは彼のような傾向を保持しています。(文献に忠実で誠実、慎重なT.フランダース氏のような人もいます。)

 VⅡ(第二ヴァチカン公会議)を貶す人達にとって、20世紀の神学者達は全て攻撃対象です。ラーナーの「無名のキリスト者」がボストン異端を受けて展開されていることを顧みず、シャルダンやリュバック、コンガールも文献にあたらないで先入観だけで裁いているジャーナリスト、専門外学者が非常に多い。

         新神学(Nouvelle théologie)は信仰の面からみると自由過ぎる側面も持っていますが、間接的に司祭達に影響を与えるものの、本来教会での実践を目論んで営まれておらず、あくまで抽象的な哲学的探求と聖書や古典神学書の再解釈が主な活動です。過去の遺産の形骸化や忘却を防ぎ、不断の見直しを行うことは、しばしば言いがかりを付けられる破壊行為や意識的変革とは全く次元を異にするもので、実際は地味な作業です。一方のジャーナリスト達の一見神学的な言説は、護教の振りをしつつ文献に当たらず、先入観による裁断が随所にみられる不遜で乱雑なものです。トマス・アクィナスの膨大な神学が、スアレスやヴォルフ主義を経て変質し「分業体制」の伝承によって総体が損なわれてきたことは、カトリック弱化の一因であり、これは宣教など実務ばかりに偏り、堅実な神学的作業の継続の怠惰に起因します。

 加えて私は典礼などを中心とした実践神学の領野の立場から発せられる見解に「強い政治性」を感じます。それが本質的にキリスト教、あるいはカトリシズムと相容れないものだと思われます。歴史上、大学のような研究機関がない時代からカトリックは異端との闘いによって「教理」を磨き、不動のものとして大きく成長してきました。

 ですから教会が揺らいでいる時こそ、スキャンダル報道やゴシップ類、陰謀説でなく、教会法や哲学的な教理の分析に立ち返り、正統な神学作業こそ最も優先されるべきです。

従順こそ美


 ヴィガノ氏の言動で、騒いでいる下劣なジャーナリズムや一部、教会関係者達。
マカリックの件が手柄であった為、ヴィガノ氏に一定の信頼を自分も置いていたが,どうやら見当違いだったようだ。

ここ数か月の氏の論拠無き独善さ、その傲慢な姿によって、逆に多くのことに気付かされる。

彼に加勢する人々も同様、そこに「卑しさ」を感じずにはおられない。

  VⅡに対する修正案や改良など前向きな指摘が一切なく、ただ否定する態度。
中身のない「冗長な手紙」の数々を公表する政治的-意図。この人の正体はいずれ暴かれるでしょう。

 クーデターにしかみえないヴィガノ氏の態度をみて、そこにカトリックの美しさを感ずる人は果たしているのだろうか。
「従順さ」こそカトリックの美しさです。謀略史観を前提に語る姿、猜疑心はそれ自体、「聖霊の不在」であるかのような態度であり、イエズスへの不信、マリア様への攻撃でもある。

伝統主義者≒モダニスト

第二バチカン公会議(VⅡ)について、
Lumen gentium、NOSTRA AETATEの中には悪用され得る曖昧な表現があります。
しかし伝統の中で解釈すれば、そこに矛盾は生じません。

VⅡこそ悪と決めつけモダニズム批判している人達こそ、伝統の系の中に居らず、

外から先入観に基付く解釈を成す伝統主義者(≒モダニスト)でしょう。

ボストン異端、フィニーの破門を顧みるべきです。

事物の建て上げ過程「法源」を顧みず、結果の「形式-型」だけ強調する者、

見せかけの長い祈りをする(マタ23)者は愛のない律法主義者です。

出来事と起動因

このところヴィガノ大司教の言動が波紋をよんでいます。彼が実際何を目論んでいるのか、遠回しに言っているようで真意をくみ取りかねます。第二バチカン公会議(V2)がフランス大革命に匹敵する大きな出来事であったことは多くの歴史家、神学者に仄めかされてきたものの、その意味、核心箇所があまり表立って言明されません。

現在のアメリカの混乱にみるポリティカル・コレクトネス「言葉狩り」に近い状況の要因、その対象語彙を用いることは不要な騒動を招きかねないことから避けるにしても、メディア報道に見え隠れする革命精神のようなものの正体が何なのか見極める必要があります。それらは政治学の領野で専門家の仕事に期待するとして、

仏大革命が暗にルソーにより準備されたことのように、V2においても、やはりその教理を構築する材料を提供した神学があったこと。

カール・ラーナーやT.シャルダン、H.キュングなどの学説(古代教父の再-解釈を含む)が改めて検証されるべきだと思います。彼ら神学者が純粋な学術研究として構築したものなのか、時代潮流に沿った結果なのか、教会崩壊を目論む(考えにくいが)だのか、その意図は図りかねます。しかし学説が改革の道具、梯子として用いられ、教会を世俗化-文明化へ大きく傾斜させた面は否定しようがないと思います。

 日本に皆無ですが、海外で盛んな教会ジャーナリズムは、教皇や〇〇枢機卿の立ち回りに関する記事や意見ばかりが散見され、政治色が強く、信仰や教理、思想面での議論が欠落しているように見えます。
 大きな出来事は、それを基礎付ける教理や学説を必要とします。啓蒙思想により仏革命が準備されたように....。
ジャンセニズムも同様、それを準備する二元論を肯定する出来事がある。ルター宗教改革にしても世俗-政治勢力のみならず、神秘主義やオッカム唯名論のように、主意主義の理論構築があってはじめて行為が立ち上がり、抽象思考が可視化され行為へと移行されていきます。

 V2批判で知られるルフェーブル大司教にしても、実践家としての記録はありますが、教理変更に対する核心的なところの議論があまり言及されていないのではないでしょうか。また伝統派の用いる「解釈」において、前提としているものが誤りであるという考察(ボストン異端に関する論考)がいくつか成されている。このあたりは政治情勢に目を奪われていると見落としてしまう繊細な教理に関する核心でしょう。

 実務家が必ずしも聖霊に満たされているとは限らず、やはり文面や論文による検証こそ待たれるべきだと考えます。この世俗化され尽くした世界において、神父でなく誰がextra ecclesiam nulla salusを言うことができるのでしょうか。

 

 

分離前-全体像の美しさ

1799年に記されたロマン派詩人ノヴァーリス(Novalis)の断章の冒頭部

「ヨーロッパがひとつのキリスト教国であり、ひとつのキリスト教徒がこの人間らしく形づくられた大陸に住まわっていた時代――それは美しく輝かしい時代であった。」

ノヴァーリス作品集 3 今泉 文子 (翻訳) ちくま文庫 より